(やなぎのわたしあと)
吉野川の北岸と南岸をつなぐ渡し場の跡である。美吉野橋の辺りにあり、「吉野川四大渡し」「妹背の四隻」などと呼ばれた渡しの一つであった。
柳の木の下に天明6年(1786)に大阪の山上講が建てた石灯籠が遺り、台座の西面には「右よしの」、東面には「左よしの」と刻まれている。
伊勢街道から吉野山への道しるべで、交通の要衝地であったことがうかがえる。また、吉野山や大峰山に参詣する山伏や山上講の人々の奥駈の駈出所(結願所)にもなっていた。
柳の下の役行者像に参拝し、吉野川に下りて水行を行い、
 「父母のをらで着せたるから衣、今かき流すはらい川水」
と唱えるのが慣例で、昭和の初めまではそういう機能も残っていた。
また、『万葉集』巻七と巻九に
 「音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川 六田の淀を今日見つるかも」
 「かはづ鳴く六田の川の川楊のねもころ見れど飽きぬ川かも」
と詠まれている「六田の掟」に想定され、古来よく知られていた。
平安時代の『醍醐寺根本僧正略伝』には、聖宝が金峯山の要路にあたる川辺に渡しを開いたとあり、この地があてられる。
江戸時代、吉野山の花見や山上参りが盛んになり、多くの人々がこの渡しを利用して吉野山へ登った。
なお、ここから約3㎞上流に「桜の渡し」、3㎞下流に「椿の渡し」、さらに2㎞下流に「檜の渡し」があった。現在は、上流から桜橋、椿橋、千石橋が架けられている。
柳の渡し跡
柳の渡し跡

南岸には役行者の像が建っている。
役行者の像
役行者の像


住所 吉野郡大淀町北六田
アクセス 近鉄 六田駅 徒歩10分
時間 自由
費用

ブログ村のランキングに参加しています。
良かったら 1日に1回、↓ の3つのバナーのいずれかをCLICKして、
応援してください。よろしくお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 奈良県情報へ にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ