(きんぷせんじ) 公式サイト 金峯山寺 蔵王堂



世界遺産
(紀伊山地の霊場と参詣道)



役行者を開基とする。金峯山(きんぷせん)は蔵王堂のある吉野山の麓、吉野川六田柳の渡しから大峯山寺のある山上ヶ岳の少し南、化粧(けわい)の宿まで続く一連の山々の総称。
役行者は金峯山で修行中に金剛蔵王権現を感得。その姿を桜に刻み、山上(山上ヶ岳)と山下(吉野山)に祀ったのを草創とする。



役行者が金峯山寺を本拠地として修験道に励み、山岳信仰を世に広めたいと伝えられるため、当山は修験道の聖地として古くから崇拝された。
9世紀後半には、京都・醍醐寺を開いた理源大師聖宝(832~909)が金峯山に入って以来、その弟子の貞崇など多くの修験僧が入山。御岳精進への関心も高まり、宇多天皇・藤原道長・頼通の参詣をはじめとする皇室・貴族の御岳詣(みたけもうで)は白河上皇の世に絶頂を迎えた。



平安時代後期になると標高約1,700mの山上へは登らず、山下だけの参詣も一般化。吉野の蔵王堂が金峯山一山の中心となり、山下に百数十ヵ寺、山上に36坊を数えた。多数の僧兵を擁していたことから源頼朝と対立した義経は吉野へ下り、後醍醐天皇はこの地に南朝を樹立した。



永承4年(1049)に興福寺僧円縁が金峯山検校となってからは興福寺に所属し、慶長19年(1614)の徳川家康の命により、天台宗の日光輪王寺宮の支配に入った。



明治の神仏分離令により金峯山一山の修験寺院はすべて廃され、金峯山寺の山上蔵王堂(山上ヶ岳)は当時の地主神金峯神社の奥の宮、山下蔵王堂(吉野山)は金峯神社の口の宮と定められた。
その後、吉野山四ヶ院が寺院に復興するに合わせ、明治19年(1886)には山上・山下の蔵王堂の寺院への復帰が許され、明治22年には金峯山寺の寺号も取り戻すにいたった。
しかし、復興した金峯山寺は山下蔵王堂が中心とされ、山上蔵王堂は先に復興した四ヶ院と洞川の一寺を加えた五ヶ寺が御持院となって、大峯山寺本堂として今日に至っている。
さらに金峯山寺は昭和23年(1948)に天台宗から離れて大峯修験宗を立て、昭和27年以後は金峯山修験本宗と改称して総本山となっている。



7月7日に行われる蓮華会が「蛙飛び行事」の通称で広く知られている。



平成16年7月「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界文化遺産の登録された。






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