(へいじょうきゅうせき)平城宮跡



世界遺産
(古都奈良の文化財)



特別史跡



平城京跡は奈良市街地一帯に所在し、その北部中央に平城宮跡がある。平城京は奈良時代の首都であり、平城宮は現代の皇居と霞ヶ関の官庁街の機能を併せ持つ。
和銅三年(710)から延暦三年(784)まで存続し、元明天皇から桓武天皇までがここを都とした。



平城宮は約1km四方の区画に他の都城には見られない東張出部を取り付けた外形をなし、その外周を築地大垣がめぐる。総面積は約130ha。築地大垣の各面には宮城門を配し、朱雀大路に開く南面正門は朱雀門と呼ばれる。
宮内には天皇の御在所である内裏や儀式・政務の際の中心施設である大極殿・朝堂院などがあり、その周辺には官衙(かんが)を配置していた。東張出部(東院地区)の南半分は皇太子の居所と考えられ、その南端では池を中心とした庭園が見つかっている。



平城宮の構造は、聖武天皇の時代に大きく変化する。恭仁京遷都(天平12年)~平城京遷都(天平17年)を境に大極殿は西から東へと移り、第一次大極殿の跡地には宮殿建物が林立。一方、内裏は奈良時代を通じて同じ場所にあり、その構造は建て替えのたびに複雑化していく。こうした増改築は長岡京への遷都まで続けられたことが判明している。9世紀初めには平城上皇が一時遷都したが、その後は田畑と化した。




平城京条坊図




出典:奈良検定テキスト






第一次大極殿
重要な国家儀式や外国使節をもてなす宴会を行うに当あたり、天皇が出御する最も重要な場所。正殿(2010年復元)は藤原宮大極殿正殿と同規模(正面幅44m・高さ25m)であることから、その移築と考えられる。740年の恭仁宮遷都のときに再び移築された。



第一次大極殿
第一次大極殿





朱雀門
平城宮の正門。上屋構造を伝える直接資料は全くないが、発掘調査で判明した平面プランと『伴大納言絵巻』に描かれた平安宮朱雀門や現在の法隆寺中門、薬師寺東塔、東大寺転害門などを参考に、正面25m・高さ20mの二重門に復原された。両側には平城宮を囲んでいた高さ約5mの築地大垣の一部も復原されている。



朱雀門
朱雀門







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