(たいまでら) 公式サイト 當麻寺



新西国三十三ヵ所 第十一番札所



古来、夕日が沈む聖山と崇められた二上山の東南に境内が広がる。當麻曼荼羅を祀る本堂(曼荼羅堂)や仁王門は東向きに立ち、金堂や講堂、東西の三重塔は南面する。2つの中軸線をもつ伽藍は歴史を反映しており、真言宗と浄土宗の塔頭が伽藍を護持する珍しい二宗兼帯の寺となっている。中将姫伝説を宿す當麻曼荼羅は中世に熱烈な信仰を集め、本尊となったが、同時に創建期の白鳳仏も受け継がれている。甍(いらか)を競う2基の三重塔は、古塔の双塔としては唯一の現存例である。中之坊や奥院などの塔頭はボタンの名所としても知られる。






<歴史・伝説>
推古天皇20年(612)に用明天皇の麻呂子皇子(當麻皇子・聖徳太子の異母弟)が河内国交野郡山田郷に二上山万宝蔵院禅林寺を建立し、天武天皇10年(681)にその孫にあたる當麻国見が現在地へ移したと伝わる。
また、天武天皇9年(680)に竣工して同13年(684)に金堂・講堂・千手堂・東西両塔が完成し、恵灌が導師となって落慶法要が行われたともいい、草創は明らかでないが、7世紀後半に当地の豪族である當麻氏の氏寺として建立されたと考えられる。



創建当初は弥勒仏を本尊とする金堂や講堂が南面し、それにやや遅れて東西の三重塔が建設されたようである。
一方で、西方浄土を表現した當麻曼荼羅は天平宝字7年(763)に中将姫が織ったとされる。弘仁14年(823)、空海はこれを拝して感銘を受け、嵯峨天皇に奏上した。この曼荼羅を祀る本堂が現在のような形になったのは平安末期。当初はこの場所に千手堂があったようで何度かの改修を経て、永暦2年(1161)に現在の本堂が建設された。



當麻寺は当初、南都六宗の一つである三論宗を奉じていたが、空海が留錫して真言宗となり、興福寺の支配下に入った。そのために治承4年(1180)に興福寺や東大寺が平家に焼討された際には當麻寺も兵火にかかり、本堂や東西両塔など多くの伽藍を焼失した。その後、源頼朝の寄進で金堂や講堂は再建された。



鎌倉時代以降は、當麻曼荼羅図と中将姫伝説が阿弥陀信仰と結合して浄土宗が加わり、熱心な信仰を集めていった。曼荼羅信仰の高まりとともに、この曼荼羅を重んじる浄土教徒が住むようになり、応永3年(1370)、浄土宗総本山の京都・知恩院12世の誓阿普観が、知恩院の奥之院として境内に往生院(現在の奥院)を建立した。



このように、寺は、西方浄土を背にする本堂を中心とする東西軸の伽藍と、創建以来の南向きの堂塔が交じった独特の伽藍構成となったのである。
江戸時代には興福寺から分離、塔頭は真言宗と浄土宗に分かれ、伽藍を護持するようになった。現在、堂塔は13院あり、真言宗は中之坊、西南院など5院、浄土宗は奥院、護念院、千仏院、宗胤院などである。







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