(おかでら・りゅうがくじ) 公式サイト
西国三十三ヶ所 第七番札所
明日香村の中心の岡集落から鳥居をくぐり、急な坂道を東へ500mほど上ると、朱塗りの仁王門が立つ。
山腹の傾斜地に堂塔が不規則に配置されたこの山寺は1300年ほど前に創建されたのち、西国観音霊場札所として信仰されてきた。
巨像の本尊如意輪観音に厄除を祈願する参詣者が絶えない境内はシャクナゲやサツキの名所でもある。
シャクナゲ(石楠花)は約3,000株あり4月中旬~5月上旬が見頃。サツキは約100株で5月上旬が見頃。なかには樹齢500年という古木もある。
<歴史・伝説>
正式に龍蓋寺という。義淵僧正が田畑を荒らしていた竜を法力で池に封じ込め大石で蓋をしたおいう伝説に由来する。本堂前にある龍蓋池は、その義淵僧正が竜を封じ込めた池とされる。
創建は明らかではないが、飛鳥時代末か奈良時代初めに僧義淵が国家安泰と藤原氏の繁栄を祈願して天武天皇の子・草壁皇子が住んでいた岡宮を寺に改めた寺院であるという。
平安時代に現・本尊の如意輪観音が信仰の中心となり、西国三十三ヶ所観音霊場として発展した。
さらに、鎌倉時代には厄除信仰も加わった。室町時代の記録によれば、大厄の25歳になった男子は、2月初午の日に必ず岡寺へ参詣したという。
このように岡寺は、飛鳥の他の寺院が中世以降に衰えたのに対し、観音信仰と厄除信仰に支えられ、寺勢を保ってきた。
主な堂塔は近世以降の再建。仁王門の西の治田(はるた)神社境内に古い礎石が残り、白鳳時代の瓦が出土したことから、当初の伽藍はこの付近にあったと推測される。
仁王門 【重要文化財】
慶長17年(1612)の建立。屋根の4隅を支える建築部材が獅子や竜、虎の形をしているのが興味深い。
仁王門をくぐり、石段を登ると、左側に楼門、開山堂、本堂が見える。
文化2年(1805)上棟の本堂は、境内でひときわ大きく、西国札所にふさわしい偉容を見せる。
さらに、奥に進み、十三重石塔を右手に見ながら、緩やかな上り坂を登ると、稲荷社がある。
さらに、右手の坂道を登り、進むと、義淵僧正廟所、三重塔がある。この三重塔は文明4年(1472)の台風で倒壊後、昭和61年に悲願の再建を果たす。琴形の珍しい風鐸が吊るされている。
西国三十三ヶ所 第七番札所
明日香村の中心の岡集落から鳥居をくぐり、急な坂道を東へ500mほど上ると、朱塗りの仁王門が立つ。
山腹の傾斜地に堂塔が不規則に配置されたこの山寺は1300年ほど前に創建されたのち、西国観音霊場札所として信仰されてきた。
巨像の本尊如意輪観音に厄除を祈願する参詣者が絶えない境内はシャクナゲやサツキの名所でもある。
シャクナゲ(石楠花)は約3,000株あり4月中旬~5月上旬が見頃。サツキは約100株で5月上旬が見頃。なかには樹齢500年という古木もある。
<歴史・伝説>
正式に龍蓋寺という。義淵僧正が田畑を荒らしていた竜を法力で池に封じ込め大石で蓋をしたおいう伝説に由来する。本堂前にある龍蓋池は、その義淵僧正が竜を封じ込めた池とされる。
創建は明らかではないが、飛鳥時代末か奈良時代初めに僧義淵が国家安泰と藤原氏の繁栄を祈願して天武天皇の子・草壁皇子が住んでいた岡宮を寺に改めた寺院であるという。
平安時代に現・本尊の如意輪観音が信仰の中心となり、西国三十三ヶ所観音霊場として発展した。
さらに、鎌倉時代には厄除信仰も加わった。室町時代の記録によれば、大厄の25歳になった男子は、2月初午の日に必ず岡寺へ参詣したという。
このように岡寺は、飛鳥の他の寺院が中世以降に衰えたのに対し、観音信仰と厄除信仰に支えられ、寺勢を保ってきた。
主な堂塔は近世以降の再建。仁王門の西の治田(はるた)神社境内に古い礎石が残り、白鳳時代の瓦が出土したことから、当初の伽藍はこの付近にあったと推測される。
仁王門 【重要文化財】
慶長17年(1612)の建立。屋根の4隅を支える建築部材が獅子や竜、虎の形をしているのが興味深い。
仁王門をくぐり、石段を登ると、左側に楼門、開山堂、本堂が見える。
文化2年(1805)上棟の本堂は、境内でひときわ大きく、西国札所にふさわしい偉容を見せる。
さらに、奥に進み、十三重石塔を右手に見ながら、緩やかな上り坂を登ると、稲荷社がある。
さらに、右手の坂道を登り、進むと、義淵僧正廟所、三重塔がある。この三重塔は文明4年(1472)の台風で倒壊後、昭和61年に悲願の再建を果たす。琴形の珍しい風鐸が吊るされている。
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