(おおやまとじんじゃ) 公式サイト
大和大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)、八千戈(やちほこ)大神、御年(みとし)大神の三神が祭神。
大国魂大神と八千戈神は共に大国主神の異名で、大国魂大神は国土経営に貢献し、万物の生成化育を司る神、八千戈神は武勇に勝れた神である。
『延喜式』に記載される大和坐大国魂神社に比定される神社である。大和大国魂神は大倭(やまと)大神ともいわれ、大神神社に祀られている大神神と並ぶ大和の地主神(国津神)である。
日本最強を誇ったが、昭和20年(1945)に沖縄南方で撃沈した戦艦大和はこの大和神社の御魂を祀っていたことから、戦艦大和ゆかりの神社として知られている。
大和神社
大和神社

<歴史・伝説>
神社の創祀には諸説ある。
『日本書紀』崇神天皇の条には、国内に疫病が続くので、天皇の殿内に祀った天照大神と大和大国魂神を皇女・渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に祀らせたが、姫はやせ衰えてしまったので、市磯長尾市(いちしのながおいち)を祭主にしたところ、国家は治まったと記す。
続いて、垂仁天皇の条には、倭大国魂(倭大神)の神地を穴磯邑(あなしのむら)に定め、渟名城稚姫に命じて大市の長岡岬に祀らせたが、姫もやせ衰えて祭祀を行えなくなったので、大倭直(あたい)の祖長尾市宿禰に祀らせたとある。
この大和神社のもとの神地・鎮座地の穴磯邑と長岡岬についても多くの説があるが、一般的には現地の東方、檜原神社山麓付近に比定されている。
また、遷座の時期も平安時代から元禄年間(1688~1704)の頃まで諸説がある。
『新抄格勅符抄』(大同元年(806))には、天平勝宝元年(749)から神護景雲元年(767)にかけて大和をはじめ尾張、武蔵、常陸、安芸、出雲の諸国に神封327戸とあり、当時伊勢神宮に次ぐ神封があてられていたことは朝廷の篤い崇敬の程がうかがえる。
源頼朝から守護使不入の許可を与えられたと伝えられ、また大和の戦国時代の土豪・十市遠忠(とおちとおただ)の尊崇を集め、多くの寄進物を得たといわれる。
祖霊社には、昭和20年(1945)4月7日沖縄南方で撃沈された戦艦大和の第二艦隊の司令長官・伊藤整一命他2,736柱を合祀する。
大和神社 祖霊社(左)と戦艦大和ゆかりの神社の石碑(右)
祖霊社(左)と戦艦大和ゆかりの神社の石碑(右)

一の鳥居から二の鳥居までは約250mあり、戦艦大和とほぼ同じ大きさである。
大和神社 一の鳥居からの参道風景
一の鳥居からの参道風景

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