(ながれやまこふん)
馬見古墳群中央群の中の一基で、全長106m、後円部の直径約64mの前方後円墳である。
前方部の南側は元の尾根地形を切り通しているので、前方部に一段追加したように見える。
後円部北側にも形状に沿った低い段があり、こういった範囲を加えると南北に約170m程度の規模になる。
昭和45年(1970)、県道工事の事前調査中の土取りにより前方部東側側面が破壊された(古墳全体の約1/4)。
翌年、国史跡に指定され、保存が図られるようになったが、その後17年間は有刺鉄線に取り巻かれ、手つかずの荒れ山となり、不法投棄のゴミに悩まされる状態になった。
平成元年(1989)、整備のための発掘調査で東側くびれ部で墳丘にいたる通路が発見された。
墳丘裾に設けられた埴輪列に直交する二列の埴輪列があり、この部分に対応する二段の埴輪列が途切れていることから、埴輪列によって区画された通路と判断された。
また、前方部で埋葬施設の粘土槨が検出されたほか、くびれ部からは多数の石製模造品や家形・囲形・蓋形などの形象埴輪が出土した。
また、墳丘の各所から葺石と前方部二段、後円部三段にめぐる円筒埴輪列などが検出された。
破壊された部分の墳丘を復原するとともに、東側には埴輪を並べ、葺石を葺いて築造当初の姿を復元し、西側には芝生を張って整備された。
この結果、約1,600年前と後の姿を同時に見ることができるようになっている。
復元された円筒埴輪の約1/4は河合町民の手作りである。
馬見古墳群中央群の中の一基で、全長106m、後円部の直径約64mの前方後円墳である。
前方部の南側は元の尾根地形を切り通しているので、前方部に一段追加したように見える。
後円部北側にも形状に沿った低い段があり、こういった範囲を加えると南北に約170m程度の規模になる。
昭和45年(1970)、県道工事の事前調査中の土取りにより前方部東側側面が破壊された(古墳全体の約1/4)。
翌年、国史跡に指定され、保存が図られるようになったが、その後17年間は有刺鉄線に取り巻かれ、手つかずの荒れ山となり、不法投棄のゴミに悩まされる状態になった。
平成元年(1989)、整備のための発掘調査で東側くびれ部で墳丘にいたる通路が発見された。
墳丘裾に設けられた埴輪列に直交する二列の埴輪列があり、この部分に対応する二段の埴輪列が途切れていることから、埴輪列によって区画された通路と判断された。
また、前方部で埋葬施設の粘土槨が検出されたほか、くびれ部からは多数の石製模造品や家形・囲形・蓋形などの形象埴輪が出土した。
また、墳丘の各所から葺石と前方部二段、後円部三段にめぐる円筒埴輪列などが検出された。
破壊された部分の墳丘を復原するとともに、東側には埴輪を並べ、葺石を葺いて築造当初の姿を復元し、西側には芝生を張って整備された。
この結果、約1,600年前と後の姿を同時に見ることができるようになっている。
復元された円筒埴輪の約1/4は河合町民の手作りである。
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