(ひのくまでらあと)
檜前集落の南東に、於美阿志神社(祭神・阿知使主)があり、この境内は7世紀に建立された東漢(やまとのあや)氏の氏寺とされる檜隈寺の寺院跡である。
檜隈寺の塔跡には於美阿志神社石塔婆【重要文化財】が立っており、江戸時代後期の国学者・本居宣長の『菅笠日記』にも記載がある。
発掘調査によると伽藍は西向きの特異な配置で、西門を入ると正面に塔、南に金堂、北に講堂がある。
回廊は講堂及び金堂に取り付き、塔を囲むことが判明している。
塔と金堂は二重基壇で、下段は花崗岩や川原石を敷いていたが、上段は不明である。
また、講堂は瓦積み基壇で、堂により異なる基壇を用いているのも注目される。
出土瓦類によると7世紀後半にまず金堂と西門が建てられ、やや遅れた7世紀末頃にかけて講堂、塔が造られたと考えられる。
また、7世紀前半に遡る瓦類も出土しており、付近に前身寺院(もしくは仏堂)の存在も推測される。
檜隈寺跡
檜隈寺跡
於美阿志神社
於美阿志神社

<歴史・伝説>
『日本書紀』『古事記』には、応神天皇の代に渡来系氏族の東漢氏の祖・阿知使主(あちのおみ)とその子の都加(つか)使主が渡来し、檜隈郷(檜前、栗原、御園を中心とする一帯)を与えられたことが記されている。
檜隈郷は、雄略天皇の代には渡来した呉人を定住させたと記事があり、渡来人が多く居住した土地であった。
『日本書記』朱鳥元年(686)八月条に、封戸百戸を施入したとあり、この時期には既に存在していたと考えられる。
平安時代後期には、講堂基壇の補修が行われているが、次第に荒廃し、廃絶後の塔心礎上に十三重石塔が建てられている。
中世史料に見える「檜隈道興寺」がこの後身とみる理解もあるが不詳である。
江戸時代中頃には十三重石塔を残すのみとなったらしい。
於美阿志神社石塔婆 【重要文化財】
凝灰岩製で高さ約4.3m。もとは十三重石塔であったと推定されるが、上層2層分と相輪を欠失し、現在は11層を残すのみである。
塔身の四面には四方仏の種子を彫るが、鎌倉時代の盛行する薬研彫(やげんぼり)ではなく、底面を平らに浅く彫り込む古い技法(平底彫)である。
各層屋根の軒反りはゆるく、下層から上層へ逓減比率が美しい優雅な石塔で、平安時代後期の造立と推定される。
石塔の解体修理の際、地下から旧塔心礎とガラス小壺、青白磁合子、須恵器四耳壺などの供養具【重要文化財】が検出された。
於美阿志神社石塔婆(十三重石塔)
於美阿志神社石塔婆(十三重石塔)

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