(やまだでらあと)
特別史跡
明日香村と境にあたる桜井市山田の辺りはかつて、阿部山田道に沿った要地であった。
寺跡には現在の山田寺は観音堂と庫裏があるだけであるが、境内には往時の伽藍の跡が残る。
発掘調査により、金堂や塔、回廊、講堂、宝蔵、南門の跡を検出した。金堂の南に塔が位置しており、それらを巡るように回廊が配され、回廊の北側に講堂が、東側に宝蔵が位置している。
特筆すべきは東面回廊であり、建物が倒壊した状況そのまま残され、連子窓などの建築部材が当時の状態を保ったままで大量に出土した。
7世紀の建築の資料に関しては、法隆寺西院伽藍が知られるのみであったが、山田寺からこれらの部材が出土したことで、古代の建築に関する理解が大きく前進することになった。
山田寺跡
山田寺跡
山田寺跡の石碑
山田寺跡の石碑
現在の山田寺
現在の山田寺

塔は1辺約12.9mの方形で基壇で、4辺の中央部に階段がある。
塔の建物平面は3間四方で、心礎は基壇上面の1m下にあり、花崗岩製で、中央に2段にうがたれた舎利孔がある。
金堂は東西21.6m、南北18.3mの基壇で、建物は間口3間、奥行2間の身舎に、身舎と柱数が等しい廂がつく形式であり、従来には例のない特異な平面構造をもち、法隆寺の玉虫厨子の様式に似た建築物であったと推定される。
金堂跡
金堂跡

講堂は間口8間、奥行4間。また、東面回廊では倒壊した建物がそのまま発見された。
この柱には軽いエンタシスが認められる。金堂と回廊の礎石には蓮華文を半肉彫りした蓮華座がある。
東面回廊跡(手前)と塔跡(左)、金堂跡(右)
東面回廊跡(手前)と塔跡(左)、金堂跡(右)

現在、飛鳥資料館には、保存処理した東面回廊の建物【重要文化財】が復元、展示され、往時の姿を知ることができる。
東面回廊(復元)
東面回廊(復元)

<歴史・伝説>
創建時の山田寺は、浄土寺、華厳寺ともいわれるが、大化改新で活躍した蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿の従兄弟)が舒明天皇13年(641)、造営着手した古代寺院である。
皇極天皇2年(643)には金堂が完成し、やや遅れて回廊が造られた。
しかし、大化5年(649)、異母弟の蘇我日向の讒言により石川麻呂が反逆の罪を着せられて自害したことから、造営は一時頓挫した。
しばらく後に石川麻呂の嫌疑が晴れ、工事は再開、天武天皇5年(676)には塔が完成、次いで講堂などが建設される。
そして、天武天皇14年(685)には丈六仏像の開眼供養が行われ、40年におよぶ造営工事が完了した。
なお、天武天皇14年に開眼された仏像は、文治3年(1187)に興福寺衆徒によって持ち去られ、現在は頭部のみが興福寺に残されている。

ブログ村のランキングに参加しています。
良かったら 1日に1回、↓ の3つのバナーのいずれかをCLICKして、
応援してください。よろしくお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 奈良県情報へ にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ