6世紀末から7世紀にかけて、女帝・推古天皇は蘇我馬子や聖徳太子(厩戸皇子)をブレーンとし、中国の随に遣いを送り、朝廷の儀礼や制度の整備をはかった。
遣隋使に従った留学生・学問僧の多くは大和の渡来系の人々で、多くの新知識を携えて帰国し、政治の改革や制度・文物の発展に貢献した。

<6世紀後半>
磯城や泊瀬(はつせ)・磐余(いわれ)などの三輪山の周辺にあった大王の宮も飛鳥地方へと移る。

<7世紀~>
飛鳥が政治・文化の中心となった。仏教が百済から伝わり、蘇我氏や聖徳太子が熱心に信仰し、
  • 蘇我氏は、百済の技術者を招き、飛鳥に飛鳥寺を建立した。
  • 聖徳太子は、斑鳩の地に法隆寺を建立した。
    ※ 創建当時の伽藍は天智天皇9年(670)に焼失
    ※ 現在の伽藍は7世紀末~8世紀初めの再建であるが、飛鳥建築の特色をとどめる
    ※ 金堂の壁画は昭和24年(1949)の火災で焼損したものの、寺内には優れた仏像や工芸品を多く残す
    ※ 周辺の中宮寺・法輪寺・法起寺などの諸寺とともに、世界に誇る文化遺産となっている
豪族の権威の象徴であった大きな古墳の造営は、7世紀に入ると行われなくなった。

<7世紀後半以後>
王族や貴族の墳墓は小規模ながら整備された切石積石室をもち、壁画が描かれるなど、高度の技法を用いるものとなった。
  • 飛鳥の石舞台古墳は蘇我馬子の墳墓と伝えられる方墳
  • 高松塚古墳キトラ古墳は、7世紀末から8世紀初めのころに造られた壁画古墳

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