(さいだいじ ほんどう) 【重要文化財】
南門を入って真っ直ぐに北進すると、東塔跡の向こうに寄棟造の本堂がある。宝暦2年(1752)の建立であり、正面7間、側面5間、一重寄棟造、本瓦葺で、正背面に3間の向拝を付け、木階で縁に上る。
内部は外回り一間分を外陣とし、中央5間3間を内陣とし、土壁を一切用いず、装飾性の少ない伝統的な様式になる。
西大寺の諸堂は鎌倉時代から室町時代にかけての火災で焼失し、本堂も見た目の古様さとは違い、文化5年(1808)頃の再建になる江戸時代後期の大規模仏堂建築である。
本堂
本堂

東塔跡
東西に八角七重の大塔の建立を企図し八角の基壇が造られ、後に四角の基壇に改め、高さ十五丈(約24m)の五重塔が東西に建立された。
しかし、西塔は平安時代の落雷により焼失し、東塔は文亀2年(1502)の兵火により焼失した。
現在の東塔跡の四角の基壇は創建当初のものであり、その周囲の八角の敷石は最初に造られた八角基壇跡である。
東塔跡
東塔跡

木造釈迦如来立像 【重要文化財】
本堂に安置される西大寺本尊である。10世紀末に奝然(ちょうねん)によって、北宋から請来された清涼寺式の釈迦如来像は、平安時代以来模造が行われたが、本尊は西大寺中興の祖叡尊による作善活動のなかでも、後の西大寺流律宗の本尊造仏に多大な影響を与えた点で特筆されるものであり、清涼寺式釈迦像を代表する名作とされている。
台座下框(しもがまち)裏の墨書銘によって、この像が本来四王堂に安置されていたもので、建長元年(1249)大仏師法橋善慶以下の9人によって造立されたことがわかるとともに、叡尊の『感身学正記(かんじんがくしょうき)』や納入文書によって、原像を前にして忠実に模刻された造立の経緯が詳しく判明することでも貴重である。
西大寺本堂 釈迦如来立像
釈迦如来立像

木造文殊菩薩騎獅坐像及び四脇侍像 【重要文化財】
右手に宝剣、左手には経巻を載せた蓮華茎を持ち、獅子の背中の蓮華座上に結跏趺坐(けっかふざ)して騎乗する文殊菩薩像である。高く髻を結い、肉身は金泥により粉溜塗(ふんだめぬり)とし、衣は盛上彩色によって華麗にあらわされ、衣文のしのぎも高く、総じて鎌倉時代後期の装飾性が見られる。
造像仏師の名を明らかにしにしないが、鎌倉時代末期の南都系の善春一派の関与が指摘されている。
文殊菩薩騎獅坐像の前方左右に善財童子(ぜんざいどうじ)と優塡王(うでんのう)、後方左右に仏陀波利三蔵(ぶっだはりさんぞう)と大聖仙人(だいしょうせんにん)を随える。
このような文殊五尊像は中国五台山の文殊信仰の一つとされ、国内でも鎌倉時代に渡海文殊として信仰を集め、叡尊や忍性は文殊思想に基づき民衆救済を行った。
この像は像内墨書銘から叡尊没後3年の永仁元年(1293)に発願され、正安4年(1302)の叡尊13回忌に完成したことがわかる。
木造文殊菩薩騎獅坐像及び四脇侍像
文殊菩薩騎獅坐像と四脇侍像
(前方左:優塡王/右:善財童子、後方左:大聖仙人/右:仏陀波利三蔵)

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