(たいまでら こうどう) 【重要文化財】
本堂曼荼羅堂の正面、金堂の北側に、金堂と同じく高い乱石積の基壇上に南面して建つ、正面7間、奥行4間、寄棟造、本瓦葺の建物である。
治承4年(1180)の兵火によって焼亡し、現在の建物は野垂木下端(のたるきしたば)の墨書により、鎌倉時代末期の乾元2年(1303)4月22日に大工・藤原助友によって建立された。
正背面に石階を設け、正面中央5間、背面中央1間、側面前方1間の板扉の開きとし、その他は全て白壁造としている。昭和10~11年(1935~36)の解体修理によって、前身堂も現在よりやや大きめの七間堂で、金堂と同じく流板葺であったことがわかっている。旧規を踏襲した鎌倉時代の和様建築である。
當麻寺 講堂
當麻寺 講堂
内部は、中央の5間に2間を内陣、その外回り1間を外陣とする。
内陣背面3間に来迎壁をこしらえ、その前に格狭間付きの須弥壇を置き、壇上に本尊阿弥陀如来坐像、その周囲に妙幢菩薩立像、阿弥陀如来坐像、十一面観音立像、地蔵菩薩立像などが安置されている。
その多くは、他の堂宇から集合した平安時代から鎌倉時代にかけての特色である仏像群である。
木造阿弥陀如来坐像  【重要文化財】
丈六で、膝前で定印を結び結跏趺坐する姿にあらわされる。
ほぼ円相に近い相好や眼尻のあがった鋭い彫り口、上体の肩の張り、胸から腹部にかけて彫りの浅い柔軟な肉取りなど、12世紀末~13世紀初期の特色を示していることから、治承兵火後の復興像との説がある。
講堂本来の像とすれば、奈良時代以前の阿弥陀信仰を物語る貴重な事例となる。
當麻寺講堂 阿弥陀如来坐像(本尊)
阿弥陀如来坐像(本尊)

木造阿弥陀如来坐像  【重要文化財】
本尊の阿弥陀如来坐像に向かって右側に安置される。伝来は不明。右手首先が欠失し、右手の印相は阿弥陀如来のものではなく、当初は釈迦如来か薬師如来として造立されたものであろうと考えられている。
檜の寄木造で内部をきれいに刳り抜き、彫眼として衣文の彫りも浅く穏やかな表情を示している。
治承4年(1180)平重衡の南都攻めに際し、越中次郎の兵火によって焼亡した講堂の復興像の諸像の一つとされ、院政木における定朝様阿弥陀像の一典型といわれている。
當麻寺講堂 阿弥陀如来坐像
阿弥陀如来坐像

木造地蔵菩薩立像  【重要文化財】
本尊に向かって左側に安置される半丈六の像である。右手に錫杖を持ち、左手掌上に宝珠を捧げる。伝来は不明である。
体幹部は正背面とも縦二材を正中線で矧ぎ付け、さらに体側面は左右ともに縦一材を矧ぎ寄せる。
顔は目鼻立ちが深く整い、頬はふっくらとしてやや下ぶくれした表情をみせている。太つくりの同心円状の衣文が腰の上まであらわされていることなどから、制作は鎌倉時代中期頃のもととされている。
當麻寺講堂 地蔵菩薩立像
地蔵菩薩立像

木造妙幢菩薩立像  【重要文化財】
左手を屈臂して第一、四指を捻じて、右手を垂下させて五指を伸ばしている。寺では妙幢菩薩と称しているが、これは地蔵菩薩の異名である。
両手とも後補であり、当初の印相は不明である。面貌は彫眼とし、上瞼と眉の間が深くくぼみ、切れ長の目に特色がある。
欅(けやき)の一木造で、頭部や上半身、わずかに捻った腰から下の脚部などにも重量感がみなぎっている。全体にどっしりした肉感や太腿のY字形の衣摺線の表現も的確で、制作は10世紀前半頃であるとされている。
當麻寺講堂 妙幢菩薩立像
妙幢菩薩立像

ブログ村のランキングに参加しています。
良かったら 1日に1回、↓ の3つのバナーのいずれかをCLICKして、
応援してください。よろしくお願いします。
にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 奈良県情報へ にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ