• 和銅3年(710)、都は藤原京から、奈良盆地の北端、平城京に遷都
  • 延暦13年(794)、平安京に遷都
一時的に平城京以外の地に遷都したことがあり、また延暦3年(784)には長岡京へ遷都が行われたが、政権の所在地として奈良が主な地位を占めていた時期であるため、和銅3年(710)~延暦13年(794)の間を奈良時代とすることが広く認められている。
平城京条坊図
平城京条坊図
「平城」は「なら」とも読まれ、「なら」を漢字で飾って表したものとみられるから、当時は『日本書紀』崇神紀にみえる「踏み均す」の意で理解されていたと考えられている。
平城京への遷都を命じた和銅元年(708)の詔では、奈良の地が「四禽図(しきんと)に叶い、三山鎮をなす」ために都の地に適すうとあり、中国の陰陽五行や風水の思想に基づくことは事実であるが、別に現実的な遷都の理由があったことは確かである。以下のような理由が考えられているが、定説はない。
  • 大宝律令の国家体制にふさわしい都城の必要
  • 藤原京での環境問題の悪化
  • 藤原不比等主導の政権固め
  • 唐の長安城をモデルにした都作り
これらの事情が複合するに加えて、藤原京がもっていた「南向きの都城であったにもかかわらず、交通路との関係で北側からアクセスせざるを得ない都」といった欠点を解消する必要性も大きく考慮されたと考えられる。
⇒ 奈良盆地中央部をはさんで反対側、すなわち盆地北部に遷都することによってしか、この欠点は解消されないものだったとされている。
平城京の完成で、文字通り天子の南面する、中国的な理想の都城ができあがったといえる。

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