(りょうせんじ) 公式サイト
奈良市の南西部の矢田丘陵東麓を流れる富雄川沿いにあり、天平時代に開いたと由緒ある古刹は神仏習合の名残を今に伝える。境内は手入れが行き届いていて、谷を挟むように本堂【国宝】三重塔【重要文化財】、内外金箔押しの弁財天の金殿、総プラチナ押しの王竜殿など新旧の堂宇が立ち並ぶ。
また、入口右手奥には1200坪のバラ園が広がり、春と秋に200種2000株のバラが咲き競い、かぐわしい香りに包まれる。
約2kmの山道を歩いた奥の院には霊験あらたかという大弁財天社がせせらぎのほとりに立っている。
霊山寺
霊山寺
本堂
本堂
三重塔
三重塔
バラ園
バラ園 [2013.09.28撮影]

<歴史・伝説>
富雄の里は記紀に「登美」、「鳥見」と表記され、敏達天皇の頃から小野氏の領地であったといわれる。小野妹子の子とされる小野富人は壬申の乱に係わったとして登美山に閑居、天武天皇12年(683)には熊野本宮に参籠し、薬師如来を感得したと伝える。富人は薬湯屋を建て、薬師如来を祀って、人々の病を治療した。
神亀5年(728)、阿倍皇女(のちの孝謙天皇)の病を快癒させたことから、天平6年(734)、聖武天皇の勅願で行基が薬師如来を祀る大堂を建立したのが寺の創建である。
天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼会で大導師を務めたインドのバラモン僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が、この地がふるさとの霊鷲山(りょうじゅせん)に似ているところから寺名を霊山寺と名付けたといわれている。菩提僊那は遺言によってここを墓所とした。
鎌倉時代には北条時頼の帰依を受けて本堂を再建、堂塔や仏像の修復、新調がなされ、僧房21ヶ寺を数えるほどに栄えた。豊臣秀吉に寺領100石を与えられ、江戸時代にも御朱印寺として大寺の寺観を誇っていた。
明治維新の廃仏毀釈で大きな打撃を受けたが、昭和15年には本堂と鐘楼を解体大修理、諸堂、僧房も改築修理が進められ、弁財天を祀る金殿なども建立された。

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