(ずとう)
東大寺南大門の南約950m、新薬師寺から西北西約700mの位置に築かれた方形七段の土塔。表面を石で覆い石仏を配している。
『七大寺巡礼私記』に僧・玄昉の首塚とあることとが、その名の由来とされているが、本来の土塔(どとう)がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれるようになったとも言われている。
『東大寺要録』『東大寺別当次第』によると、神護景雲元年(767)、東大寺権別当・実忠が造営したとある。役割は五重塔など同じであり、仏舎利を納める仏塔と考えられている。
昭和62年(1987)以降の発掘調査によって、塔には上・下二時期あることが判明した。
下層の版築基壇は一辺約33mの方形、塔身も不整な方壇を呈す。塔身の初層東面中央に大型の仏龕(ぶつがん)が確認されている。基壇上には石積の三重塔が乗ると推定されている。
上層は瓦葺き石積の七重塔である。塔身の高さは約8m、初層は一辺約25mの方形で、往時には、第1・3・5・7層の奇数段4面にそれぞれ5基、3基、2基、1基ずつ総計44基(5×4+3×4+2×4+1×4)の仏龕を設け、それぞれのに石仏を納めていたと考えられている。
当初、塔頂部には心柱が立っていたが、落雷で消失し、平安時代初期に十三重の石塔を建立した。その後、塔身もいく度かの改修を受けている。
頭塔石仏 【重要文化財】
28基が現在までに確認され、25基の表面には浮彫や線彫で仏菩薩が表されている。その中で当初から露出していた13基が昭和52年(1977)6月11日に重要文化財に指定され、1基が郡山城の石垣に転用されている。
その後の発掘調査で平成11年(1999)までに新たに14基の石仏が発見され、そのうち9基が平成14年(2002)6月26日に重要文化財に追加指定された。
石仏の図像は
東側から見ると、北半分が復原され、南半分が現状保存されていることがわかる。 普段は事前に現地管理人に連絡をしないと見学できないが、今年は10/26~11/11まで特別公開されていたので、その機会を利用した。
普段は南側にある門が出来り口である。 南側には石碑が立っている。
東大寺南大門の南約950m、新薬師寺から西北西約700mの位置に築かれた方形七段の土塔。表面を石で覆い石仏を配している。
『七大寺巡礼私記』に僧・玄昉の首塚とあることとが、その名の由来とされているが、本来の土塔(どとう)がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれるようになったとも言われている。
『東大寺要録』『東大寺別当次第』によると、神護景雲元年(767)、東大寺権別当・実忠が造営したとある。役割は五重塔など同じであり、仏舎利を納める仏塔と考えられている。
昭和62年(1987)以降の発掘調査によって、塔には上・下二時期あることが判明した。
下層の版築基壇は一辺約33mの方形、塔身も不整な方壇を呈す。塔身の初層東面中央に大型の仏龕(ぶつがん)が確認されている。基壇上には石積の三重塔が乗ると推定されている。
上層は瓦葺き石積の七重塔である。塔身の高さは約8m、初層は一辺約25mの方形で、往時には、第1・3・5・7層の奇数段4面にそれぞれ5基、3基、2基、1基ずつ総計44基(5×4+3×4+2×4+1×4)の仏龕を設け、それぞれのに石仏を納めていたと考えられている。
当初、塔頂部には心柱が立っていたが、落雷で消失し、平安時代初期に十三重の石塔を建立した。その後、塔身もいく度かの改修を受けている。
頭塔石仏 【重要文化財】
28基が現在までに確認され、25基の表面には浮彫や線彫で仏菩薩が表されている。その中で当初から露出していた13基が昭和52年(1977)6月11日に重要文化財に指定され、1基が郡山城の石垣に転用されている。
その後の発掘調査で平成11年(1999)までに新たに14基の石仏が発見され、そのうち9基が平成14年(2002)6月26日に重要文化財に追加指定された。
石仏の図像は
- 情報に宝相華の天蓋があり、下方に供養菩薩を配した如来三尊仏を刻むもの
- 楼閣を背にして三尊仏を配し、菩薩・比丘を加えた3 or 5体の群像を表すもの
- 如来坐像1体の周囲に小仏を多数配置したもの
東側から見ると、北半分が復原され、南半分が現状保存されていることがわかる。 普段は事前に現地管理人に連絡をしないと見学できないが、今年は10/26~11/11まで特別公開されていたので、その機会を利用した。
普段は南側にある門が出来り口である。 南側には石碑が立っている。
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