(とくゆうじ)
元来は元興寺の子院で北方にあったが、元興寺が土一揆の被害にあった後、天正18年(1590)に住僧の意順が現在地へ移したという。江戸時代初期、融通念仏宗に属して大念仏寺の末寺となって以来、檀家寺院として復活し、信仰を集めて現在に至る。
本堂は寛文7年(1667)、休岸上人による再建本尊。本尊には阿弥陀如来立像(鎌倉時代)を祀る。北条政子の念持仏であったと伝わる。
境内には、毘沙門堂(寛永9年)、観音堂、地蔵堂、方丈、庫裡(慶長16年、元々は本堂)、鐘楼等の堂宇が軒を連ね、観音堂本尊は平安時代初期作、子安観音立像である。
山門
山門
山門からの眺望
山門からの眺望
本堂
本堂

寺地は平城京の外京、六坊大路にあたり、中将姫の父・右大臣藤原豊成(藤原不比等の孫)の旧邸宅と伝えられる。中将姫が育ち、継母にいじめられた場所として知られている。「虚空塚(こくうづか)」、「雪責松(ゆきせめまつ)」など受難のあとが随所に残されている。

雪責松
昭和49年の宅地造成のあおりを受けて始末された。現在は、ここの向う築地塀下に蔦の絡みついた松の切株が存在したことを示す案内板がある。
雪責松の跡
雪責松の跡

虚空塚
継母が中将姫を誘い出し、突き落とした崖。突き落とされた中将姫は途中の小枝に引っ掛かり、空中に留まり怪我ひとつしなかったとされ、空中に留まったことから「虚空塚」と呼ばれている。
虚空塚
虚空塚

延宝5年(1677)に高林寺から移された豊成と中将姫の供養塔という2基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が四方石仏を中央に挟んで、並んで建っている。

四方石仏
正面が薬師、右廻りに釈迦、阿弥陀、弥勒の各如来像が配置されている。鎌倉中期の端厳な作とされている。
豊成の供養塔(右)と四方石仏(左)
豊成の供養塔(右)と四方石仏(左)

住所 奈良市鴨川町25
アクセス JR・近鉄 奈良駅 市内循環バス「北京終町」~徒歩5分
JR・近鉄 奈良駅 ~徒歩20分
時間 9:00~17:00
費用 拝観料:志納

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