(やぎゅうのさと)
打滝川中流域および布目川下流域に沿った小盆地に位置する柳生は、春日神社神戸四箇郷の一つに数えられる小柳生郷に相当し、平安時代には興福寺一乗院領小楊生庄が置かれた。
柳生氏は小楊生庄の荘官を務めた大膳永家を祖とし、代々この地を拠点としてきた。中世末期には、芳徳寺東南の山上に柳生城が築造された。近世には柳生藩1万2500石の陣屋が置かれた。
柳生藩の成立は、柳生新蔭流を創案した柳生石舟斎宗厳の五男・宗矩が徳川家康に招かれ、将軍・秀忠・家光の兵法指南役、さらには惣目付(大目付)を務めた功績により、寛永13年(1636)に一万石の大名に列せられたことによっている。
宗矩の没後、柳生藩は一時廃藩となったが、その後、寛文8年(1688)に再び藩として成立し、柳生藩は明治維新まで存続することになった。
十兵衛杉
樹齢350年と推定される老杉。柳生十兵衛が諸国漫遊に旅立つ際に先祖に墓に参り、植えたとされる。昭和48年(1973)に2度落雷に遭い、立ち枯れてしまったが、今もなお柳生の里を見下ろすようにたたずむ姿が印象的なシンボル的存在である。
十兵衛杉
十兵衛杉

剣塚 古城山
後醍醐天皇が笠置山に潜行の際に、柳生家の先祖が忠勤をぬきんでて古城山に陣を張ったという場所。
剣塚
剣塚
古城山
古城山

柳生八坂神社と摩利支天山
柳生正木坂の剣禅道場で1万3,000人余りの剣士を養成し、全国に広め、その書『月の沙』を書き残した柳生十兵衛三厳(宗矩の長男)の弟・宗冬は家綱の兵法指南役となり、柳生八坂神社を造成し、石の鳥居を寄進し、その横の丘に武道の守り神である摩利支天を祀った。
もとは四之宮大明神と呼ばれ、春日大社の第四殿比売大社を祀っていたが、承応3年(1654)に大保町にある八坂神社の祭神素戔鳴尊の分霊を勧請して造営した。拝殿は天之石立神社のものをここに移した。
柳生八坂神社 鳥居
柳生八坂神社 鳥居
柳生八坂神社 社殿
柳生八坂神社 社殿
摩利支天山
摩利支天山

住所 奈良市柳生町
アクセス JR・近鉄奈良駅 石打・柳生・邑地中村行バス50分「柳生上」
~徒歩5~15分
時間 自由
費用

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