(うねびりょうぼさんこうち・まるやまこふん)
東から延びている丘陵上に築造された前方後円墳で、北西側が前方部となり、その一部は国道169号線によって削られている。
従来、円墳と考えられていたので、通称、丸山古墳や見瀬丸山古墳、近年では五条野丸山古墳と呼ばれることが多い。全長は約310m、後円部の直径150m、前方部の幅220mで、周濠を含めると約415mであり、古墳時代を通じても全国6番目(奈良県内では最大)の大きさであり、古墳時代後期に限れば飛び抜けた規模を誇る。
後円部には国内最大規模の横穴式石室が築かれており、その形は奥壁が幅広な羽子板形である。
平成4年(1992)の現況調査では、石室全長28.4m、玄室長さ8.3m、羨道長さ20.1mあった。この数字もあくまで現況の数字であり、玄室内は1m以上の土砂が堆積していることを考えると30m近い数字になるとされている。石室内で羨道の占める割合が比較的長いという特徴がある。
玄室内には奥と手前に2基の家形石棺が安置されており、棺の蓋の形状などから奥の石棺が7世紀前半、手前の石棺が6世紀後半のものと考えられている。追葬の形をとる場合、奥が古くて、前が新しいのが一般的であるが、ここではそれが逆になっている。
石棺の石材はともに兵庫県加古川付近で採集された竜山石(たつやまいし)と考えられている。なお、奥の石棺は桜井市の艸墓古墳の石棺に、手前の石棺は斑鳩町の藤ノ木古墳の石棺によく似た特徴を持っている。
古墳の築造時期は6世紀後半と考えられ、その規模から被葬者は天皇・皇族層と考えられている。
江戸時代以降は天武・持統天皇合葬陵とされることが多かったが、明治14年に現在の位置に治定替えされた後は、後円部の一部が畝傍陸墓参考地として宮内庁の管轄下にある。
最近では、欽明天皇と堅鹽媛(きたしひめ)の陵に比定する意見もあるが(※)、確定するには至らず、蘇我氏系の墳墓であるとする説も根強く、570年に没したとされる蘇我稲目が被葬者ではないかとされている。
※欽明天皇は571年に没しており、『日本書記』によると、612年に推古天皇が母の堅鹽媛を父の欽明天皇陵に改葬し、軽の地で盛大な葬送の儀式を行ったとあり、手前にある石棺が欽明天皇のものとする説がある。
畝傍陸墓参考地(丸山古墳)
畝傍陸墓参考地(丸山古墳)
後円部を前方部から望む
後円部を前方部から望む
丸山古墳全景
丸山古墳全景

住所 橿原市五条野町・大軽町
アクセス 近鉄 岡寺駅 ~徒歩5分
時間 自由
費用

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