あおによし

奈良の地理、歴史、遺跡・古墳、寺院、建築・絵画、伝統行事などをノート形式でまとめたブログ です。
奈良検定受検対策と奈良情報、奈良の風景写真に関する内容が中心です。

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2016年8月6日にホームページ「aoniyoshi」http://eich516.comを開設し、当ブログの記事をベースとしたページを順次作成して、更新しています。

今後は活動の中心をホームページとしますので、当ブログは移行後、閉鎖する予定です(2017年8月予定)。

【大和郡山・磯城】

大和郡山城お城まつり、今年の開催期間は3/25(金)~4/9(土)。期間中は、約600本の提灯で夜桜が楽しめるようになっている。 直接ライトアップがされているわけではないので、コンデジでの撮影では明るさが不足しそうな感じ。 なので、実際に肉眼で見える感じは、写真より ...

天正13年(1585)、大納言・豊臣秀長が姫路から郡山へ入部し、多武峰の談山神社を城北に遷座、その堂宇と共に、多武峰にあった桜樹も城内に移したのが、大和郡山の桜の始まりとされている。 享保9年(1724)、柳澤吉里が甲府より郡山に国替えとなり入城してから、桜樹の補 ...

(だいなごんづか) 大和大納言と呼称された豊臣秀長の墓所。秀長は豊臣秀吉の異父弟。郡山城主であった筒井氏が伊賀国への国替の後、代わって天正13年(1585)閏8月、豊臣秀長が大和・紀伊・和泉の3ヶ国を領する百万石の太守となり、同年9月、郡山城に入った。 秀長は郡山 ...

(やたにいますくしたまひこじんじゃ) 延喜式内大社で旧県社。『大和志』に矢落大明神と称すとある。矢落とは、櫛玉饒速日命の天降りの時、天磐船から三本の矢を射ていずれもこの地に落ち、宮居したとの伝があり、このとき二の矢が落ちたところであると伝わる。境内にはそ ...

大和民俗公園内の東側にある梅林では紅梅、白梅、蝋梅の3種類の梅が植えられている。管理は、「梅の木ファミリー会」というところでしているようで、それぞれの梅に木に名前を書いたプレートが吊るされていた。 少し寒い日が続いたせいか、まだ3~5分咲きといった感じだった ...

(ひめくわじんじゃ) 島ノ山古墳に隣接しており、『延喜式』式内社である。祭神の天八千千媛(あまはちちひめ)が蚕を飼い、絹織物を織った伝説が残され、御神体は「桑の葉」と伝えられており、糸井神社と同様、渡来系の織物技術者集団に関連する神社と考えられる。 本殿 ...

(しまのやまこふん) 奈良盆地の中央、寺川と飛鳥川に挟まれた南東から北西に延びる微高地上の北端に築かれた大型前方後円墳である。古墳の主軸はこの微高地の方向に沿い前方部を南東に向ける。 全長200m、後円部径98m、前方部幅93mで約35~40mの水をたたえる周濠に囲まれ ...

(つしまじんじゃ) 元来は牛頭天王を祭神とする産土神(うぶすながみ)として信仰されていた。神仏分離以前は祇園社と称した。『奈良県磯城郡誌』に、尾張の平野氏が当地に藩邸を構えるにあたって旧縁のある神社号を移して津島神社と改称したとある。 天治2年(1125)の棟 ...

(かがみつくりじんじゃ) 古代工人鏡作集団がいたとされる鏡作郷に鎮座する。鏡類を製作鋳造することを業としていた鏡作部がこの地一帯にわたって住居し、御鏡(天照国照彦火明命)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として奉祀した神社である。 『延喜式』式内社の鏡作坐天照 ...

(がくあんじ) 公式サイト 近鉄・ファミリー公園前駅から西に向かい、浄化センター公園を抜けて、佐保川沿いの道を70mほど下流に歩いて、橋を渡ると北側に額田部(ぬかたべ)集落があり、その中にある。 寺伝によれば、前身は聖徳太子が学問道場として開いた熊凝精舎(く ...

(いといじんじゃ) 『延喜式』神名帳に記載されている古社である。結崎駅より西に約1km進み、川西町役場を過ぎると正面に見えてくる。 本宮に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)を祀っているが、古くは綾羽明神・呉羽明神の2神が主神であったとされる。これは、漢機 ...

(めんづか) 川西町結崎の糸井神社の近くの宮前橋を渡り、寺川の堤を遡ると、面塚の碑が立つ小さな公園がある。昭和11年(1936)に観世会により建てられた「面塚碑」と「観世発祥之地碑」がある。 結崎は大和猿楽四座の一つ観世座(結崎座)の本拠地であった。他は円満井 ...

(ふうきじ) 六縣命(むつがたのみこと)を祭神とする六県神社の境内にあり、もとは六県神社の神宮寺で、地元では宮寺と呼ばれていた。 貞観年間(859~877)に法隆寺東院を再興した道詮が建立したと伝わる。寄棟造本瓦葺の本堂【重要文化財】は至徳5年(1388)に建立され ...

(めたじんじゃ) 祭神は稗田阿礼命(ひえだのあれいみこと)、副祭神は猿田彦神、天鈿女命(あめのうずめのみこと)である。古くから三社明神として信仰を集めていた。式内社であり、旧県社である。 稗田環濠集落内の東南部に鎮座する。この地は古代豪族である稗田猿女君 ...

(じょうかまち やまとこおりやま) 筒井順慶の築城に始まり、豊臣秀長、増田長盛による城郭、城下町の本格的な拡張整備で近世の大和郡山の骨格ができあがる。 豊臣秀長は南都の商業的賑わいを郡山に移して、短期間で城下町を形成した。この時、商業の先進地から集められ ...

奈良・町家の芸術祭 HANARART(はならぁと)2013(公式サイト)の郡山城下町エリアが、今年は10/12~10/20で開催されているので、散策してきた。 金魚のまち「大和郡山」、豊臣秀吉の弟・秀長がつくった町民自治「箱本十三町」の町並・町名が残る城下町。江戸時代に建てられ ...

(やまとみんぞくこうえん) 公式サイト 26.6haの広大な敷地に、昭和49年(1974)開館の奈良県立民俗博物館や江戸時代に建てられた古民家を「町屋」、「国中(奈良盆地)」、「宇陀・東山」、「吉野」の4つのブロックに分かれていて移設復原しているエリアや梅林、しょうぶ ...

(しゅんがくいん) 文禄3年(1594)に没した僧・重勢が開いた寺院であるという。郡山の城下町に寺域をもつ町寺である。もとは、東光院と号した。 郡山城主の豊臣秀長が天正19年(1591)に没した跡、豊臣秀吉は城の南にある芦ヶ池付近に大光院を建立し、京都大徳寺の古 ...

(えいけいじ) 郡山藩主の柳沢氏の菩提寺である。宝永元年(1704)に柳沢吉保が15万石の封禄で甲斐国甲府城主に任じられ、宝永7年(1710)、同国岩窪村躑躅ヶ崎(現・甲府市)に柳沢家菩提寺として永慶寺を建立した。 吉保の戒名「永慶寺殿保山元養大居士」は永慶寺に因 ...

(やくおんはちまんじんじゃ) 『続日本紀』の天平勝宝元年(749)11月25日の条に「於南薬園新宮」とあり、平城京の南、梨原にこの宮があったことになる。 梨原の地はもと広大な薬園のあった所である。八幡大神の分霊を冠して命名されたのが創始である。 翌年に塩町の ...

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