あおによし

奈良の地理、歴史、遺跡・古墳、寺院、建築・絵画、伝統行事などをノート形式でまとめたブログ です。
奈良検定受検対策と奈良情報、奈良の風景写真に関する内容が中心です。

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2016年8月6日にホームページ「aoniyoshi」http://eich516.comを開設し、当ブログの記事をベースとしたページを順次作成して、更新しています。

今後は活動の中心をホームページとしますので、当ブログは移行後、閉鎖する予定です(2017年8月予定)。

史跡

(にんじはいじあと) 国史跡 所在地 北流する葛下(かつげ)川に沿って、国道168号線が並走する香芝市北端の尼寺に廃寺跡が遺存している 尼寺廃寺跡は北遺跡(北廃寺)と南遺跡(南廃寺)の2つからなっている 北遺跡から南遺跡までは約200m 発掘調査 平成 ...

2016.3.23撮影 芳徳寺の境内にある柳生一族の墓所は静穏な雰囲気が漂っていて、どこか落ち着いた感じがする。 多数の石塔を囲む四方の土壁と瓦の色合いの調和が気に入っているところ。 ...

(しぎさんじょうあと) 標高433mの信貴山雄嶽を中心とする山城で、東西550m、南北700mに渡って、120以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世城郭である。 空堀の切り通し掘、土塁、門等の城郭跡が良く残り、特に高櫓跡が著名とのこと。 中世末、織田・豊臣期直前の ...

(あすかいけいせき・あすかいけこうぼういせき) 奈良県立万葉文化館の東棟と西棟をつなぐ通路の下に、その一部が再現されている。 敷地の北側を飛鳥寺に隣接し、南側を飛鳥浄御原宮に近接する。飛鳥の都の中心に位置した生産工房遺跡である。遺跡名称は近世に築造された溜 ...

(きでらあと) 7世紀後半に創建された紀寺跡は、百済大寺(吉備池廃寺)の後身である高市大寺の候補地の一つとしてあげられる寺院跡である。 発掘調査では、南北一直線上に配置された南大門跡、中門跡、金堂跡、講堂跡が明らかになるとともに、東に偏して建てられた塔跡、寺 ...

(きびいけはいじ) 飛鳥時代の寺院跡。舒明天皇が舒明天皇11年(639)に造営を開始した百済大寺に比定されている。 長い間、その実態は不明だったが、発掘調査で、池の南側の堤付近で寺院の伽藍跡が発見され、伽藍の東に金堂跡、西に塔跡、北に僧房、それらを囲む回廊と推 ...

(やなぎのわたしあと) 吉野川の北岸と南岸をつなぐ渡し場の跡である。美吉野橋の辺りにあり、「吉野川四大渡し」「妹背の四隻」などと呼ばれた渡しの一つであった。 柳の木の下に天明6年(1786)に大阪の山上講が建てた石灯籠が遺り、台座の西面には「右よしの」、東面には ...

(ひそでらあと・せそんじ) 聖徳太子建立諸寺の一つに数えられており、吉野寺・現光寺・比蘇寺などと称されたこともある。現在は、禅宗の世尊寺となっている。 奈良時代には「釈門之秀」として道慈(入唐して三論と密教を学び、養老2年帰国)と共に並び称せられたといわれる ...

(おおばらてらあと) 国道166号線を桜井市から女寄(めより)峠に向かう途中、粟原川を挟んで南側、粟原の集落の上手に天満神社が祀られている。それに近接して、集落の中の急峻な山道を登りつめたところに「史跡 粟原寺址」の石柱が立つ。標柱のある付近とその周辺の平地 ...

(さかたでらあと) 飛鳥地域の南部を流れる飛鳥川東岸の傾斜地に立地する。鞍作氏の氏寺であり、豊浦寺と並ぶ飛鳥時代の尼寺である。 創建は司馬達等の子である鞍作多須奈が用明天皇2年(587)に丈六の仏像を造顕して寺を建立したとも、多須奈の子である鞍作止利が飛鳥大仏 ...

(こせでらあと) 近鉄吉野線とJR和歌山線が連接する吉野口駅のやや北方の両線にはさまれた三角形状の地に、塔跡とその心礎が残る。その傍らには、大日堂という小さな堂に転用された礎石がある。 巨勢寺は古代豪族巨勢氏の氏寺であったと伝えられるが、『日本書紀』朱鳥元 ...

(じょうりんじあと) 立部寺(たちべでら)ともいい、聖徳太子建立四十六ヶ寺の一つに数えられている。創建は出土瓦などから飛鳥寺よりやや遅れる7世紀前半と考えられている。 小高い丘陵上に占地する寺跡には基壇や礎石などが残存し、発掘調査によって金堂跡や塔跡、回廊 ...

(かすがやませっくつぶつ) 東大寺大仏殿を建てるために春日山の凝灰岩を切り出して石材を掘り取った跡に、石仏を刻んだものであるが風化が進んでいる。 石仏は全部で18体あるが、左右の二つの洞窟に分かれている。一つは地蔵尊を中心としたもので、もう一つは大日如来と阿 ...

(じごくだにせっくつぶつ) 滝坂道沿いの奈良奥山ドライブウェイを越えた右手にあり、凝灰岩層をくり抜いた石窟で側面に仏像が線刻されている。聖(ひじり)が住んでいたという伝承があり、聖人窟とも呼ばれる。 向かって右側壁は妙見菩薩坐像、奥壁右は十一面観音像、中央 ...

(たきさかのみち) 江戸時代、柳生に通じる道は、江戸から伊賀上野を通って柳生に至る江戸街道、京都から笠置を通り柳生に至る伊賀街道、そして奈良から忍辱山を通り柳生に至る柳生街道の3通り存在していたといわれる。 その柳生街道の一部で、奈良市高畑町から春日山と高 ...

(いまにしけしょいん) 公式サイト 重要文化財 永く大乗院家の坊官を務めた福智院氏の居宅を大正13年(1924)、今西家が譲り受けたものである。一説には大乗院家の御殿を賜り移築したとも伝えられている。 昭和12年(1937)8月25日、国宝保存法により、京都の二条陣屋、 ...

(しがなおやきゅうきょ) 小説家の志賀直哉が奈良在住の友人に勧められて、大正14年(1925)、42歳のときに京都の山科から奈良市幸町に来住した。 やがて、奈良公園に近く、春日の森が望まれる高畑町に屋敷地を求めた。直哉自らが設計、京都の数奇屋大工の棟梁に依頼して ...

(だいなごんづか) 大和大納言と呼称された豊臣秀長の墓所。秀長は豊臣秀吉の異父弟。郡山城主であった筒井氏が伊賀国への国替の後、代わって天正13年(1585)閏8月、豊臣秀長が大和・紀伊・和泉の3ヶ国を領する百万石の太守となり、同年9月、郡山城に入った。 秀長は郡山 ...

(もりのきゅうやくえん) 公式サイト 城下町の面影を残す大宇陀区の中心街地である旧松山町の中ほど東側に「元祖吉野葛 大葛屋」の看板がかかる森野家がある。 森野家の先祖は元和2年(1616)に吉野の下市から宇陀松山に移住、農の傍ら代々葛粉の製造にあたってきた。こ ...

(めんづか) 川西町結崎の糸井神社の近くの宮前橋を渡り、寺川の堤を遡ると、面塚の碑が立つ小さな公園がある。昭和11年(1936)に観世会により建てられた「面塚碑」と「観世発祥之地碑」がある。 結崎は大和猿楽四座の一つ観世座(結崎座)の本拠地であった。他は円満井 ...

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